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体と心にやさしく語りかける癒しのリズム 整体院 プルミエイル整健堂

整体院 プルミエイル整健堂
■住 所 ■
広島市東区矢賀新町4丁目4-20-302
・OPEN 10:00〜20:00
・定休日 水曜日
■アクセス■
・JR天神川駅より徒歩3分
・イオンモール広島府中
ソレイユ南側入口より徒歩5分

   
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こちらのページでは、等身大の私が分かるプロフィールのご紹介です。
大久保 友杜矢とは、どんな人間?どんなことをしてきたの?
といったところにご興味のある方向けのページです。



今から7年前、整体というものに出会い、そして学び、癒しを届ける整体師として一歩を踏み出しました。それから、たくさんの方に出会いながら、いろんな勉強をさせていただきました。そんな出会いや学びをきっかけに、少しずつ癒しに対する考え方が変わるとともに、癒しの届け方に幅が広がりはじめました。

一人ひとりに、直接体をほぐしながら癒しを届けることや、20人〜30人の多くの皆さんと、体を動かすことを通じて、とんだり、はねたり、笑ったり、一緒に癒しを分かち合うことなど、今までの整体師としてのあり方が180度ガラっと変わりました。また、数年前は、一部の方との関わりだったのが、今では、小さな子供たちから70代〜80代のお年寄りの方まで、幅広いつながりをもつことができました。 本当にありがたく思います。


というような言葉が自分の口から出ることは、昔の自分からはまったく想像もできませんでした。実は、私の頭の中には“独立”という言葉はまったくありませんでした。その言葉を考えただけでも拒否反応を起こすほどでした。大変だとか、難しいとかいう思いではなく、「自分にはそんなことはできない」とずっと思い込んでいました。それがそれが、今こうして独立してやっているのですから、本当に人生とは分からないものだなと実感しています。

さて、これより、保育園時代〜現在に至るまでをご紹介します。
このページには、「こんな私でもできるんだらかきっとみんなもできる!」というメッセージを込めてご紹介しています。少しでも何かの参考とか何かのきっかけになれば幸いです。


● 保育園〜幼稚園時代

当時の自分を振り返って、今ある自分の姿を見ると、本当なの?と疑ってしまいます。
というのも、いつも落ち着きがなく、人の話を聴かない(正確には聴けない)、本能のみで動いているような子供でした。3〜6歳くらいの子供の集中力は、平均3〜5分といいますが、私の場合、1分もてばいいほうでした。そして、特に先生を困らせていたのは、超短気で、少しでも腹の立つことがあると、すぐにカッとなっていました。

近所のおっちゃんからは、「この子は悪くなるぞ!」と言われるほどでした。よく最近の子は“キレやすい”という表現をされることがありますが、私の場合、ちっちゃなときから始まっていたようです。(当時の保育園の先生、幼稚園の先生方には、大変ご迷惑をおかけしました。)

果たして、これで1年生になれるのだろうか?ちゃんと勉強してくれるのだろうか?といつも両親は不安だったといいます。そんな両親の気持ちに目も向けず、暴れん坊の保育園〜幼稚園時代を過ごしていました。この時代は、ウルトラマンや仮面ライダーごっこに夢中で、それ以外のことは興味がありませんでした。やりたいことはやりたい、やりたくないことはやらないそんな感覚で過ごしていたように思います。



● 小学1年〜3年生(1学期)まで

暴れん坊だった私も晴れてピカピカの1年生になることができました。
体が小さかったので、ランドセルに背負われている感じでした。また、クラスで一番小さかったので、いつも前へならえの時には、手を腰に当てて三角をつくるポーズをとっていました。(最近はしないですかね?)

さて、学校生活はというと、幼児期のときとまったく変わらずで、やんちゃぶりはさらにエスカレート。ケンカはするし、ちょっかいは出すし、授業は聴かない(聴いてもさっぱり分かりません。)、宿題は忘れる・・・etc と、いっぱいありすぎて書けないくらいです。
こんな状態ですから、先生には特に目をつけられよく叱られていました。今では見られることは少なくなっていると思いますが、よく教室の外の廊下に立たされました。

あまりにも学校での生活態度がよくないので、担任の先生から家に電話がかかってきたり、ひとつ上の兄がいるので、担任の先生が教室に兄を呼び出し「弟さんは家でもあんな感じなの?お兄ちゃんからもよく言ってあげてね。」と、兄が困ったような顔をしながら先生の話を聴いていたのを覚えています。ですが、当の本人はそれほど気にしておらず相も変わらずでした。

両親は、少しでも勉強する姿勢を身につけさそうと、お習字、くもん、家庭学習の教材、子供おもしろ百科事典、英語のテープ教材(“モクモク村のケンちゃん”、これは面白かったのでよく覚えています。)などを買って、いろいろとサポートしてくれていたのですが、これらは、私にとって勉強道具ではなく、遊び道具となりほとんど身につくことはありませんでした。そんな状況の中でも、ひとつだけ褒められていたのは、「あんたは元気があるから、それがとりえやな。」と元気だけに関してはよく褒められていました。この言葉を聴くたびに本当にうれしかったことを覚えています。 

こんな感じで、むちゃくちゃっぽいですが自分なりには、勉強以外は楽しく過ごしていました。そして、3年生の2学期に香川県の小学校へ転校することとなり、ここからが自分の中で心身ともに大きく変換する時代に入っていきました。



● 小学3年2学期〜小学卒業まで

小学3年の2学期より、新しい学校に転校となり最初はワクワクしていました。
しかし、こんなにもやんちゃで一見オープンに見える子供かと思いきや、実は、とても恥ずかしがり屋で、あがり症で、人見知りする子供だったということが分かりました。(実は、今でも若干あります。)

その出来事は、転校初日のことです。学校の全体朝礼のとき、校長先生が全校生徒に転校生を紹介しますといって、私と兄を、校長先生が立っている朝礼台にあげられてしまい、緊張してずっと下を向いていました。あんな体験は初めてでしたから、どうしていいか分からず、みんなと目線を合わさず、ただただ下を向いて立っているだけで精一杯でした。

そして、新しい環境で落ち着いた学校生活を送っていけるかと思っていたところ、なんと初日からケンカをしてしまい、その日に担任の先生が自宅へ訪問し親に説明。その後、こっぴどく叱られました。親の期待をよそに、新しい学校でも相変わらずのやんちゃぶり発揮で過ごしていました。

あるとき、そんな私に転機が訪れました。
それは4年生になって2学期ごろだったと思います。私は、国語、算数、理科、社会、図工、音楽の成績は5段階で言うといつも1〜2でした。でも、唯一ひとつだけよかったのは、体育が5だったんです。とにかく体育の授業だけは大好きで夢中になっていました。1日の授業すべて体育でもOKというほど好きでした。そんな姿を見ていた当時の担任の先生は、「大久保は、運動神経がいいからな、大きくなったら体操の選手になったらどうかな」と声をかけてくれていました。

また、母より、面談会のときに先生から、「この子は、体操のセンスがあるし、本人も楽しくやっています。将来、その関係につながることができるといいですね。」と話していたと後から聞いて知りました。 当時は体操の選手になってみたいと思うところも少しありましたが、こんなやんちゃな僕を褒めてくれていた当時の担任の先生のような、体育の先生になりたいという思いのほうが強くありました。当時の担任の先生の存在はとても大きく、この時ばかりは不思議とやる気が沸いていました。

一番印象に残っている思い出があるのですが、5年生のときに小学生の陸上競技大会の走り高跳び5年生の部の選手に選ばれたことです。私は、体は小さいけれどやたらとジャンプ力がありました。選手選考のときに私ともう一人の友達が標準以上の高さを跳んでいて、二人のどちらかから選ぶことになりました。この時、友達のほうがあきらかに背は高く、大会ではいいところまで行けるだろうという感じでした。しかし、先生は私を選びました。
私は、先生にこう尋ねました、「先生!なんでぼくを選んだの?」というと、先生は、「お前に可能性を感じたからやで。なんか、いけそうな気がするって思うたけんな。」とのこと。この言葉を聞いた瞬間、全身がはちきれんばかりのエネルギーに包まれました。1年に数回しかほめられることがあるかないかの私が、こんな形でほめられ認めれるとあれば、このうれしさをどう表現していいか分かりませんでした。

ヨシ、がんばるぞ!! といざ本番へ。
ドラマのように、ここでいい成績を残して「やったー!!」と先生たちと分かち合う、そんな場面であれば最高なんでしょうけど、結果は見事に予選落ち。大舞台は初めてなので、大緊張してしまい、体はガチガチで標準の高さも超えられず、しょんぼり競技場を後にしました。ある意味、私らしいといえば私らしいです。

本当に不思議ですが、自分を褒めてもらってそれを自分が承認していくと、その他の勉強にも意欲が沸いてきて、このころから少しずつまじめに先生の話を聴くようになり、机に向かう時間も増えてきました。全体の成績はほんの少し伸びたくらいでしたけど、心のどこかでやればできる(かも)、そんな手ごたえをつかんだ時期でした。

5年生〜6年生の時期は、ほどよく勉強して、しっかり遊んで、たまにやんちゃしてはありましたけど、幼児期のころを比べるとだいぶ落ち着いてきて成長したように思います。この当時は、キャプテン翼というサッカー漫画が大人気で、その影響を受けて毎日近くの田んぼや公園でサッカーボールを蹴って遊んでいました。中学生になったら、サッカー部に入ってサッカー選手になりたいと思っていました。ほかには、ジャッキーチェンやブルースリー、リーリーチェン(現:ジェット・リー)のアクションが大好きで全作品を観ていました。いつかは、中国に行ってカンフーを学びたいそんな思いも抱いていました。
とにかく、面白い!すごい!かっこいい!と感じたものは、やってみたい、そうなりたいとすぐに影響を受ける子供だったんです。

自分の幼少期を振り返ると、私がとっていた行動は、どれも突発的、衝動的なことが多く、興味のないものにはまったく興味を示さないかすぐに飽きてやめてしまう、本当に興味のあるものだけにずっと夢中になっていました。それを見ている周りの人たちも理解できないところがあったと思います。

今、幼少期の自分を分析すると、“注意欠陥・多動性”の要素も少なからずあったように思います。いつも、通知表(学校での様子)には「落ち着きがない、すぐにカッとなる・・・」と書かれていました。こういった状態の裏側には、心の奥に寂しさや、認めてほしい、疎外感といったものがつねにあって、それを紛らわすために、感じたくないためにはちゃめちゃな行動を繰り返していて、それはある意味、うまく伝えられない分、いろんな行動を通じてメッセージを届けようとしていたのかもしれません。


● 中学生時代

中学時代は、さすがにまじめにしなくてはとちょっとだけ自覚するようになりました。
少し落ち着きもありおとなしくはなっていた感じでしたが、そう簡単に根っこから変わることはできないもので、時々、本性が現われ友達とやんちゃをすることもありました。
自分で自分にちゃんとしよう、ちゃんとしようと言い聞かせながらバランスをとろうと努力していたのですが、逆にこれが過剰になりすぎて、いい生徒、いい人間を演じる自分が現われてきて、周りの目を気にしすぎて自意識過剰になっていました。

だから、やることなすこと思いきってができなくなり、中途半端な場面が多く見られました。自分らしいではなく、周りの人から見ていい生徒、いい人間として見られるであろう自分を演じることにエネルギーを費やしすぎて、中学時代は心身ともに疲れた学生生活を送っていたように思います。

そうそう、勉強のほうはというと、良くもなく悪くもなくといった感じで、勉強嫌いは依然として変わらず、テストとの時だけがんばっていたくらいです。でも、さすがに中学3年生になると、「高校だけはがんばって行っときなさい!」と親から言われたことで、やっと重い腰を上げて勉強に力を注ぎ、無事希望校に合格し卒業の運びとなりました。
いろいろあったと思う中学時代なのですが、それほど印象に残っていないのが不思議です。


● 高校生時代

高校時代は、サッカー部に所属していたので学校生活といえば、サッカーの練習に始まり、サッカーの練習で終わるそんな生活でした。当時は、県内でも上位を争う強い高校でしたから、それは練習も厳しいものです。中学校からの流れでそのままサッカーを続けてきた私は、幼少期からバリバリサッカーをやってきたメンバーたちとは比べものになりません。それほど伸びもなく3年間補欠部員として続けてきました。こうして続けてこられたのも、すばらしい先輩や後輩、同期の仲間たちに恵まれたからと思っています。

高校生活すべてがサッカー漬けというわけではありません。小学校時代から思っていたカンフーとか空手を習いたい。たまたま友人にこの話をすると、いい空手の道場があると進められ、高校1年のときに空手を学ぶことになりました。この空手道場では、突きとか蹴り、組み手、型の練習だけでなく、武器(トンファー、サイ、棒術、短棒、ヌンチャクなど)を使った練習もあり、自分が思っていた理想のスタイルにすごく近かったので、一生懸命練習にのめりこみました。また、師範は人生論について語ることが好きで、練習が夜の9時くらいに終わるのですが、それから2〜3時間語ることもしばしばあり、うつらうつらしながら話を聴き、その状態でも相槌だけはうまく打っていたのを覚えています。(笑)でも、いいお話を聞かせていただき、それは今になっても参考にさせて頂いてます。

こうして、サッカーと空手に明け暮れた日々を過ごしていましたが、そろそろ進路のことを決めなければということで、まず私が選んだ第1の進路は、“警察官”になるでした。
なぜ選んだかというと、今もよく放映されていますが、警察のドキュメンタリー番組が大好きでよく観ていました。それを定期的に観ていると、次第に自分の中にある正義心に火がつき世の中をよくするために警官になろうと思い立ち試験を受けることになりました。

結果は、不合格。これは自分も予想通りの結果でした。それもそのはず、ほとんど勉強もせずに思いつきだけで挑んだ無謀な挑戦でしたからそうは問屋がおろしません。こうやって振り返ってみると、このようなパターンは今になってもよくあるんです。計画性のない無謀な思いつきチャレンジ。でも、今では妻という安心サポートがついていますから、ちゃんとココ!というときに気づかせてくれます。感謝してます。

さてさて、進路をどうしようと考えていたときに、両親から、「そういえば、前に体育の先生になりたいっていってなかった?専門の大学とかいって先生目指したら。」と言われまして、即、「いやいや、勉強嫌いやから就職するわ」と、次の日には、高校にある就職相談室を訪ねてそこにあった求人誌をチェックしました。

この頃は、何がやりたいか、何をしていきたいかも分からず、とりあえず何かの仕事に就かなくてはならないという視点から次の進路を探していました。強いて言えば早く仕事をしてちょっとでも大人気分を味わいたい、そんな気持ちがあったように思います。

この当時は、就職口が多く就職先がなくて困るというような心配はありませんでした。
私の中には、漠然と営業をしてみたいとしかありませんで、それと県外に行ってみたいという思いから、県外での就職先を探し面接を受け無事大手食品メーカーに就職(京都)が決まりました。



● 社会人


期待に胸を膨らませてわくわくドキドキしながら高松駅を出発。京都に到着しすぐに会社の上司の迎えがありそのまま営業所の社員寮へ直行。ここからいよいよ社会人としてスタートを切ることになりました。新人は、先輩指導員に付いて約半年間いろいろ教わります。そして独り立ちでルートを回ります。しかし、私は非常に覚えが悪く、ひとつひとつの仕事が遅くいつになれば仕事が終わるの?という感じではありましたが、なんとか独り立ちの許可が下り現場を任されます。が、しかしきちんと仕事をこなすことができず、迷惑ばかりかける毎日。見かねた先輩指導員は、もう一度私を再指導の必要があると1ヶ月ほど同伴してくださいました。(当時の、先輩指導員そして所長さん大変ご迷惑をおかけしました。)

こんな感じで社会人1年目がスタートし、ばたばたの毎日でしたがなんとか仕事をこなしていくことができました。大してよい成績を上げるセールスマンではありませんでしたが、唯一自信につながったことは、商品納品率が関西圏内の営業所の中で2位になったことです。
1位でないところが自分らしいといえば自分らしいのですが、この時は上司をはじめ先輩社員や同僚から賞賛の声を頂き本当にうれしかった。

このまま順調に進んでいくところでしたが、いろいろな事情あって退職し実家に戻ることに。それから、地元で再就職。ちょっとした役を頂きながら、各店舗を回りいろいろ経験することができましたが、ノルマ漬けの業務に参ってしまい挫折。それから、自分はいったい何がしたいんだろう?何が向いているんだろう?と自問自答を繰り返す日々が続きました。

しかし、頭で考えてもよく分からないので、とにかく何かやっていこうと、そこからアルバイトの連続です。居酒屋→トラック運送→引越し屋→ガードマン→ホテル宴会、結婚式→衣料品ルートセールス、と色々な職種を経験してきましたが、いろんな業種を知ることができ、人との出会いもあり、よい経験はできましたが、自分が見つけたかった“自分に向いているものはコレ!”というものを見つけることはできませんでした。

実際のところ、自分に向いているものはコレ!というのはそうなかなか見つからないものです。この時の私は、自分に向いている仕事=自分に合わせてくれる仕事という感覚であったように思います。また、何をもって向いている仕事としているのか、その基準はなんなのか、そこもかなり不透明でした。 でも、この当時はそんなことは分かりません。

普通に日々を過ごすことはできていましたが、何か胸の奥にぽっかり穴が開いている感じで、どこかしっくりしない自分がいました。そんなあるとき、お世話になっていた先輩と久しぶりに飲む機会があり、近況について話し合っていたときです、「お前は、いつまで今のままでおるんや、もっとお前にできることがあるやろ!」と一喝。と言われてもピンときません。すると先輩は、「お前はやさしいから福祉関係とかどうや。なんかおうとる感じがするで。」
この言葉を聞いたとき、福祉関係のことは今までに一度も考えたことがなかったので、まったくピンともスンともきませんでした。たぶん、先輩もお酒の勢いで言ったんだろうというくらいにしか捉えていませんでした。

そして次の日に、参考に福祉関係の情報だけは見てみようかと本を読んだり、福祉センターを回ったりしてみました。すると、なぜか妙に気になり始め、もしかすると・・・と思うようになってきて、さらに色んな情報を集めるようになりました。
情報を集めるだけではなく、一度どんなものか体験してみないと分からないので、体験実習に申込み複数の施設を訪問しました。

私が実習先に選んだのは、介護老人福祉施設、身体障害者療護施設で、どの現場も大変でした。でも、やってみたい!その気持ちが大きくなり、真剣に就職活動をはじめることにしました。まったく無資格ですから何かひとつ関係する資格を取得せねばと、ホームヘルパー2級を受講しながら就職活動をしました。自分の中では、すぐに採用されるだろうと根拠のない自信を持っていたのですが、現実はそう甘くはなく、なんと5社連続で不採用。
やっぱり未経験者は無理だなと半ばあきらめかけ最後の1社の面接を受けました。

しかし、幾日経っても連絡がなくもうだめだなと次を探そうとしていた矢先、「プルルルルル」と1本の電話が。「遅くなりましたが、この度採用とさせて頂きますので・・・」と、
この時は、小学校のときの走り高飛びの選手に選ばれた時くらいうれしかった。
ここから、福祉の世界へ一歩を踏み出すことになりました。

私の就職先は、介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)で、ちょうどこの時介護保険制度がスタートした年でした。最初は、あまりにも覚えることが多くて、なかなか覚えられず苦労しましたが、どこかで楽しみながら取り組めている自分があり、つらいとかしんどいとかほとんど感じませんでした。何が楽しいかと言うと、入居されている高齢者の皆さんとのふれあいが大好きでそこに自分なりの楽しさを感じていたのだと思います。

さて、これからもっと現場でがんばっていくぞ!と思っていた矢先、生活相談員として事務所に配置換えとなり、内心「事務職なんてできん!パソコンなんて電源の入れ方もしらないし無理。」そう思いながらしぶしぶ事務所へ移りました。

事務所では、さらに覚えることがたくさんで、介護保険制度の深い部分をはじめ、人間が生きていく中で関わる様々な制度なども覚えなければならず頭の中はいっぱいいっぱいでした。幸い、先輩方、上司の助けを受けながら業務をこなすことはできましたが、私の場合、仕事を効率的に進める工夫や優先順位の付け方などがまったくなっておらず、いつもドタバタで仕事をしていました。このころ、初めて心身ともに大きなダメージを受けて、胃炎を患い数ヶ月つらい思いを経験しました。
この当時は特に不器用だったなと思います。ちょっと工夫すればいいことなのにと。そのときはそんなことを考える余裕も、冷静に現状を判断することもできなかったんです。

そして、3〜4年が経ち、この頃から高齢者ひとりひとりにもっとじっくり関わることができないだろうかと考えるようになりました。自分は直接何かの形で関わることをやりたいと言う思いが強くありました。そんなときに浮かんだキーワードは、”機能訓練(リハビリ)”でした。
こういった施設で機能訓練(リハビリ)を提供するには、看護士、柔道整復士、理学療法士、作業療法士、あんま・マッサージ師、鍼灸師といった国家資格が必要です。よし!それじゃあと進んでいきたいところでしたが、そう簡単にはいかずその方向を断念。 でも何かないかと色々探していたところ、整体師、カイロプラクティックという言葉に目が止まりました。
しかしながら、この民間資格では介護保険の制度上専門としての位置づけができないため、施設の中で具体的に機能することは難しいのです。

1年くらい経った頃でした、整体、カイロプラクティックの言葉が頭から離れず、どうしてもやりたいという気持ちが次第に強くなっていました。と同時に、“独立”という言葉が頭の中をよぎるようにもなりました。この思いはさらに大きくなり、独立するにはどうすればいい、独立するための計画プランを立てるにはといった流れにシフトしていきました。
何を学びたい、どこで学びたい、何をしていきたい、いつから学びたい、退職予定日はいつ?独立予定日はいつ?スクールへ行くための予算は・・・etc

この時初めて、計画を立てるということに熱心になり、今までの中で一番真剣にこれからのことを考えたのを覚えています。なぜかというと、今度は自分ひとりだけではなく、家族があるのでそう関単には勝手自由に事を進めるわけにはいかないですから、ない頭を絞って考えました。

何件も何件も整体やカイロプラクティックの学校の資料を読み、訪ねては体験し色々検討した結果、東京の青山にある小さな整体スクール 指針コンディションに出会いました。
今扱っている整体技術の土台はこのスクールで学びました。たった一人で全国から生徒が来るほどの整体スクールを運営され、本音で語る師匠から多くの学びを頂きました。
もし、私に「整体を学びたいのですがどこかご紹介ください」といわれると、このスクールを一番に勧めます。

さて、入学手続きを済ませ受講となるのですが、当時はまだ福祉の仕事をしながら合間の連休を使い、東京まで泊り込みで学びに行っていましたので、この時は心身ともに疲れてはいたものの、先の目標がありましたからやりきることができました。全国から、同じような志を持った生徒と学ぶというすばらしい環境の下で受講できたことは本当によい経験になりました。ほとんどの人が独立志向で、今後のプランを口々に語っていました。夜遅くまで生徒同士語り合ったことが懐かしいです。

学びの当初は、専門用語になかなかついていけず、特に実技では、慣れない姿勢と指の使い方に苦労しました。指は痛いし、足はだるいしあちこちが筋肉痛になっていました。
ドンくさいながらもなんとか最後の学科を終了し、いよいよ修了試験。珍しく一発で合格し無事卒業。ほんとは、だめだしをいっぱいもらって不合格と思っていたのですが、おおめに見てくれたのでしょう。師匠は、はっきりものを言う人で、よく皆にこういってました、
「ほんとに独立したいんですか、やめたほうがいいですよ!甘くないですよ!」今思えば、その言葉を投げかけながら、先で独立したいという生徒の志の奥を見ていたのかもしれません。

そして、スクールを後にし、退職をし、いよいよ次のステージへと進むわけです。


この次は、独立に向けてからのことから、独立をしてからのことをご紹介していきます。
今まで体験してきた失敗談や成功談もお伝えしています。ご興味のある方は、引き続きご覧ください。

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